ドラゴンボートとは

ドラゴンボートは、1名のドラマー、10名~20名の漕ぎ手、1名の舵取りで行う競技で、オープンの部、混合の部、女子の部、シニアの部、ジュニアの部など様々な競技カテゴリーで開催されており、日本各地の海や川や湖で行われている、老若男女が楽しめるスポーツです。

ドラゴンボート(龍舟)とは、古代中国で生まれた世界最古の手漕ぎ舟の競漕であると言われています。

古代中国の春秋戦国時代、楚の国に屈原(くつげん)という詩人であり政治家がおりました。屈原は秦の謀略から国を守るべく努力しましたが、自国内の権力抗争に敗れ国を追放されてしまいました。
その結果、楚の国は秦に支配されてしまいます。
国の将来を憂いた屈原は、湖南省の汨羅(べきら)の淵に石を抱いて入水自殺をしました。これを知った近くの漁民たちは、屈原の身を案じ、淵に潜む竜や魚に襲われないようにドラや太鼓を打ち鳴らして探し回りました。
以来、屈原が入水した旧暦5月5日にその霊を祭る為の小舟レース大会が各地で行われるようになったといいます。時は紀元前278年だったとか。

その後、この竜舟は、中国国内は勿論、東南アジア地域など、広い地域で盛んに競漕が行われるようになり、2000年以上の年月を経て中国から世界へとドラゴンボートは広がっていきました。
日本へ伝えられたのは長崎が最初で、今から約350年前の1655年に中国福建省の竜舟文化が伝えられたといわれています。

長崎では竜舟競漕をペーロンといいます。
これは、爬はペー、竜はロン、舟はジェと発音されたことに由来するようです。
その後ジェが落ち、ペーロンが定着したものと思われます。

沖縄のハーリーは、約600年前に汪応祖ワン・オウ・ソ(豊見城城主、第二代南山王)が初めてハーリー舟を伝え、龍舟競渡(球陽)と呼んでいたようです。
沖縄で「ハーリー」と呼ぶのは後に「那覇爬龍」が盛んになってからだと思われます。
また、兵庫県相生市の相生ペーロンは長崎生まれの造船所の工員達が大正時代に持ち込んで、今では市を代表するイベントになっています。

これら伝統的な竜舟競漕がイベントから競技に変わったのは、1976年に香港で開催された香港国際龍舟祭。
これをきっかけにして、欧州選手権大会などが生まれ、日本でも1988年、大阪で日本国際龍舟選手権大会が誕生しました。
急速にドラゴンボート人気が高まり、今では、琵琶湖をはじめ、河口湖(山梨県)、京都の久美浜などで大会が作られ、東京、大阪・吹田市、和歌山等でもドラゴンボート大会が開かれています。
このようにスポーツ競技化されたドラゴンボートは、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパ、アフリカ等、世界中に広がり、現在では世界統一規格のドラゴンボート競漕として行われるようになっています。